表現の自由の、岐路
。

トカゲとファミン

ワックス掛け後のくろめこげ

愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展
「表現の不自由展・その後」で、展示されている慰安婦を表現した少女の像の公開が中止になるという悲しい事態になっていることを報道で知る。
愛知といえば、私の尊敬する同級生が愛知で展示企画に参加し、観に行った記憶がある。
広い敷地に金属で作られた立体作品が堂々と置かれ、そうした制作には高価な金属のニードルが必要だそうで、
「服は友達からもらってるんだ」とサバサバと言って煙草をふうっと吹いた彼女が当時は自分よりもずっと大人に思えた。
今回のトリエンナーレは実際に観たわけではないが、ニュースに衝撃を受けたので少し書いてみたい。
まず、表現の自由に国家が明らかに介入してきたこと、
これは超えてはならない一線を超えたと思う。民主主義の国として、超えてはならない一線を超えたと思うのは、今回の他にもう一回ある。すでに忘れた人も多いかと思うが、加計学園による獣医学部新設の件で「総理のご意向」というメモの存在を明らかにした前川さんに、読売新聞が個人攻撃をした時。
普通、権力監視の義務のある新聞社が、事件の本筋には迫らず、逆に勇気を持って情報提供した個人側を潰しにかかった。
その時もいよいよこういう時代に日本が来たなと非常にショックを受け、今回そのことを思い返した。
そしてあいちの件、個人の作った創造物に対して、市長がわざわざ視察に来、「日本国民の心を踏みにじる」という主観の元に、「行政の立場を超えている」というご主張である。
(さらにこの市長は、展示した者に謝罪要求しているというのだから、空いた口が塞がらない)
国の主張が仮にあるとして、(国というのは結局今の政治家の人たちを指す)その主張に合えばオーケー、合わなければアウトとなれば、これは戦時中の検問と同じではないのか。
日本はこれを機に検問国家へ後退するのか否かの瀬戸際に立っている。
それに検問されるかどうかの、受け身の話では終わらないだろう。映画、放送、音楽、美術、小説、あらゆる表現の作り手側の自粛・萎縮へ繋がるおそれがある。「〇〇に政治を持ち込むな」という理屈も、よく考えてみればおかしい。
私は動植物を描いているが、1945年以前は、日本では好きな絵を描いているだけで殴られる時代があった。政治は絶えず動いている。ある時には洋楽を「聴くこと」だけでも「政治的」で憲兵に連行された。
芸術・言論の自由が、今までもあったし、今後も常に保証されるだろうという前提があるから、「〇〇に政治を持ち込むな」という文脈になる。
しかし、政治は私たちを離してはくれない。

又、回線がパンクするほどに脅迫して来る人や、河村たかし名古屋市長の「日本人の心を踏みにじる」と主張する人は、
自分の拠り所としている「国」が、戦前の大日本帝国ではないのかと推察します。
河村たかし市長の「踏みにじられた日本人の心」とは一体何なのか、誤魔化さないでもっと明確に説明してほしい。明確に言語化して、海外メディアにも理解できる主張にして頂きたい。
慰安婦があった頃というのは戦時中の、日本が民主主義ではなかった時代の話で、これがドイツならばいくらドイツ国民が当時のナチスを批判しても、現在の「ドイツ国民の心を踏みにじる」とは決してなりません。
日本には仏教から来た「一蓮托生」という言葉があります。一旦決まったなら、改ざんしようが税金を身内にばらまこうが「お上」の言うことに異論を言うな、波風立てるな、とりあえず世間の皆様は何を考えておられますかという、何でも包み込んでしまう母性原理の、悪い意味での一神論的な考え方や圧力が物凄く強い。面倒でも反応しなければ、「国益」「非国民」まであと一歩でしょう。

(山崎さんからお借りした図)
現在の戦後民主主義は、大日本帝国を(憲法という形では)否定した所から出発しています。
人間宣言した昭和天皇を、今日でも同じ人ではなく、神様のように信仰されている人を、私は否定はしません。宗教・心情の自由は憲法で保証されており、個人がどの様な世界観・宇宙観を持っても自由です。
だからと言って、天皇の名前で始めた侵略戦争の責任がなくなるということは、どうしても非常に無理がある。赤子と呼んでおきながら、勝てる勝算のない絶望的な戦地に送り続け、餓死者数百万人を出した責任だけでも重すぎます。
侵略戦争で皇軍が他国民に対してやった負の歴史を、立体造形などにして展示するということは、むしろ過去を正視したり、そこから受け手が自由に感じてみるという意味では必要なことで、圧力をかけて最初から封じることは歴史を学ぶということの後退にしかなりません。
もし8月15日の終戦記念日や、6月23日の沖縄戦終結の日を祈るならば、同じ様に加害に思いを馳せることをしなければ、戦争が自然災害でなく人間の政治の引き起こした人災である以上本当に祈ったことにはなりません。

トカゲとファミン

ワックス掛け後のくろめこげ

愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展
「表現の不自由展・その後」で、展示されている慰安婦を表現した少女の像の公開が中止になるという悲しい事態になっていることを報道で知る。
愛知といえば、私の尊敬する同級生が愛知で展示企画に参加し、観に行った記憶がある。
広い敷地に金属で作られた立体作品が堂々と置かれ、そうした制作には高価な金属のニードルが必要だそうで、
「服は友達からもらってるんだ」とサバサバと言って煙草をふうっと吹いた彼女が当時は自分よりもずっと大人に思えた。
今回のトリエンナーレは実際に観たわけではないが、ニュースに衝撃を受けたので少し書いてみたい。
まず、表現の自由に国家が明らかに介入してきたこと、
これは超えてはならない一線を超えたと思う。民主主義の国として、超えてはならない一線を超えたと思うのは、今回の他にもう一回ある。すでに忘れた人も多いかと思うが、加計学園による獣医学部新設の件で「総理のご意向」というメモの存在を明らかにした前川さんに、読売新聞が個人攻撃をした時。
普通、権力監視の義務のある新聞社が、事件の本筋には迫らず、逆に勇気を持って情報提供した個人側を潰しにかかった。
その時もいよいよこういう時代に日本が来たなと非常にショックを受け、今回そのことを思い返した。
そしてあいちの件、個人の作った創造物に対して、市長がわざわざ視察に来、「日本国民の心を踏みにじる」という主観の元に、「行政の立場を超えている」というご主張である。
(さらにこの市長は、展示した者に謝罪要求しているというのだから、空いた口が塞がらない)
国の主張が仮にあるとして、(国というのは結局今の政治家の人たちを指す)その主張に合えばオーケー、合わなければアウトとなれば、これは戦時中の検問と同じではないのか。
日本はこれを機に検問国家へ後退するのか否かの瀬戸際に立っている。
それに検問されるかどうかの、受け身の話では終わらないだろう。映画、放送、音楽、美術、小説、あらゆる表現の作り手側の自粛・萎縮へ繋がるおそれがある。「〇〇に政治を持ち込むな」という理屈も、よく考えてみればおかしい。
私は動植物を描いているが、1945年以前は、日本では好きな絵を描いているだけで殴られる時代があった。政治は絶えず動いている。ある時には洋楽を「聴くこと」だけでも「政治的」で憲兵に連行された。
芸術・言論の自由が、今までもあったし、今後も常に保証されるだろうという前提があるから、「〇〇に政治を持ち込むな」という文脈になる。
しかし、政治は私たちを離してはくれない。

又、回線がパンクするほどに脅迫して来る人や、河村たかし名古屋市長の「日本人の心を踏みにじる」と主張する人は、
自分の拠り所としている「国」が、戦前の大日本帝国ではないのかと推察します。
河村たかし市長の「踏みにじられた日本人の心」とは一体何なのか、誤魔化さないでもっと明確に説明してほしい。明確に言語化して、海外メディアにも理解できる主張にして頂きたい。
慰安婦があった頃というのは戦時中の、日本が民主主義ではなかった時代の話で、これがドイツならばいくらドイツ国民が当時のナチスを批判しても、現在の「ドイツ国民の心を踏みにじる」とは決してなりません。
日本には仏教から来た「一蓮托生」という言葉があります。一旦決まったなら、改ざんしようが税金を身内にばらまこうが「お上」の言うことに異論を言うな、波風立てるな、とりあえず世間の皆様は何を考えておられますかという、何でも包み込んでしまう母性原理の、悪い意味での一神論的な考え方や圧力が物凄く強い。面倒でも反応しなければ、「国益」「非国民」まであと一歩でしょう。

(山崎さんからお借りした図)
現在の戦後民主主義は、大日本帝国を(憲法という形では)否定した所から出発しています。
人間宣言した昭和天皇を、今日でも同じ人ではなく、神様のように信仰されている人を、私は否定はしません。宗教・心情の自由は憲法で保証されており、個人がどの様な世界観・宇宙観を持っても自由です。
だからと言って、天皇の名前で始めた侵略戦争の責任がなくなるということは、どうしても非常に無理がある。赤子と呼んでおきながら、勝てる勝算のない絶望的な戦地に送り続け、餓死者数百万人を出した責任だけでも重すぎます。
侵略戦争で皇軍が他国民に対してやった負の歴史を、立体造形などにして展示するということは、むしろ過去を正視したり、そこから受け手が自由に感じてみるという意味では必要なことで、圧力をかけて最初から封じることは歴史を学ぶということの後退にしかなりません。
もし8月15日の終戦記念日や、6月23日の沖縄戦終結の日を祈るならば、同じ様に加害に思いを馳せることをしなければ、戦争が自然災害でなく人間の政治の引き起こした人災である以上本当に祈ったことにはなりません。