Yさんの父

豆の花 4/24
豆の花/ウォーターフォード/SM



やまち2


〜ミノルさんの戦争体験〜


Yさんのお父さん、ミノルさんは、戦中、結婚前の20代で召集。富山から南の島へ送られました。
戦地では、夜の暗いうちに進軍。雨が降ってぬかるんだ道を、少しでも高い所を意識して踏んで歩いたそうです。
月明かりが差して、踏んで歩いているものが死体であるとわかったそうです。
水もなく、水が汲めたとしても、まず上官へ持って行き、自分が飲むのは最後。
マラリアに感染し、帰還した時には、背の高い男性であるのに、37キロ。
座ることができなかったそうです。
南の地へ出向いた兵士の多くの死因は、弾が当たって死ぬよりも、マラリアやチフス、栄養失調などの戦病死。
陸軍病院から実家へ帰ると、父親が「なんで帰ってきた」。
当時、お粥を薄めてすすっていた、農家ではない大工さんの家。
戦地から復員してきても、家では十分静養できないという事情からでした。
ミノルさんは冷たい父親、と思ったそうです。


Yさんのご近所の、中国へ出兵された方は、命からがら復員しても、
生きて帰ってくることは、お国に尽くしていない恥だ、という当時の風潮から
母親は復員を拒否。自分だけ京都へ引っ越した、というお話でした。

(追記に「Yさんの父」当時)



 




敗戦 1

敗戦 3



残虐行為への反応

どの文化においても、どの時代においても、人びとは自分たちの戦死者を神話化してきた。その一方で、自分たちが踏みにじった相手については—多少なりとも思いを致すことがあったにしても—すぐに忘れてきた。(中略)

(戦争の)責任は、国民が、「欺かれるほどに知性の働きが弱く、強圧的(ママ)して反発しまた抗争するだけの気力のなかったこと」にある、と津田は主張した。
長野県に住む若い女性は、地元青年団の月報の中で、
「敗戦後の新聞紙は筆を揃えて、軍部の罪であると書きました。、、、だました政府の悪いことはもちろんですが、しかしだまされた私達国民には罪はないだろうか。この愚かさ、それもまた一つの罪であると私は思います」と指摘した。

このような一般的な意見にくわえて、ときには、日本人による残虐行為を認める発言もでた。南京大虐殺のような大規模で長期にわたる蛮行は、日本の報道関係者に目撃され、国際的には公にされてはいたが、日本国内では公表されていなかった。
1945年始めのマニラ大虐殺に及ぶこのほかの大量虐殺も隠されていたため、フィリピンと中国での残虐行為を中心にした詳しい報道が最初にされたとき、日本人は痛烈な衝撃を受けた。あまりに強烈で、これに較べたら、ほかの残虐行為が色褪せて見えたほどだった(例外は、東京裁判の過程で報告された日本兵による人肉嗜食の件くらいだったろう)。

(『敗北を抱きしめて』下巻 第16章 より)



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Date: 2014.06.27 Category: 立憲主義は政治的でせうか Comments (0) Trackbacks (0)

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