『教育勅語』の何が問題か
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170308/k10010903641000.html
稲田防衛相が、「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」
と発言。
歴史に向き合う姿勢が、到底あるとは思えない。祖父母の時代の教育や時代背景を聞いた時の怖さが呼び起こされた。
日本がもっと早くに敗戦を受け入れておれば、死なずに済んだ命も沢山あった。
戦争末期、祖母は、大阪の子が集団疎開するような田舎での女学校で、毎日竹槍で敵を突く練習をさせられていたのだった。
1945年 敗戦


新憲法について国民を啓発するため、占領軍の肝いりで、8枚の「憲法以前・以後」のポスターが制作された。それによると、戦後の新しい民主主義の核心は次のようなものであった。
(1945年のポスター/模写)
二つの憲法(戦前と戦後)

そもそも「教育勅語」は、戦前の大日本帝国の政府の教育方針。
“天皇が国民と同じ人ではなく、生き神様であり、皇室に国民は忠義を尽くし、いざとなれば無条件で命を捧げなさいよ” ということが、「教育勅語」の本質にはあります。
この、「天皇に仕える臣民」(天皇の家来ですよ)ということが「教育勅語」の柱であり、そこから「親孝行が大切」とか「家族仲良く」などの道徳の枝葉が出ているのです。
この枝葉の部分だけを賞賛して、子どもに教育勅語を教えるということは、歴史をふき飛ばす行為です。
当時の軍国主義と結びつき、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下、敗戦に至るまで、国内外にどれほど犠牲が出たかを、受け止めて、それを乗り越えていくことが、本来の教育のはずです。
「大日本帝国憲法」の、“憲法”とは、歴史を振り返ってみると、名ばかりで、実際には絶対天皇君主制でありました。
個人の信条でさえ、全部天皇がつくった法律の範囲内で、という制限がついていました。
当時の日本人は「憲法」とは言いながら、権力者にチェックができない、ましてや批判すらできない、そんな悲しい時代を生きていたのです。
「教育勅語の核を取り戻す」であったり、それを、何も知らない園児に暗唱させることを良しとする教育は、1945年敗戦以前の、天皇を頂点としたピラミッド型の価値観(上図)を肯定するものであり、国民主権、基本的人権、戦後の天皇の考え方を否定するものです。
現在の民主主義と相容れないので、既に昭和23年に教育勅語失効の決議は国会で通りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/教育ニ関スル勅語
《現在の日本国憲法ができる前、政府は、国民の天皇を慕う気持ちを利用して、政治と宗教とを混合させ、数えきれない若者を戦地へ送った。そして、広いアジアの国の人々に、この考え方を強要した。(下図)》

(1945年の新憲法ポスター模写)
当時、「神の国だから勝つ」ということが、学校でも子どもに教え込むことが日常であり、「戦争に負けるかもしれない」という言葉は、家族にさえも言えなかった。言論の自由など何一つなかった。
山田太一
(戦争は)あんなことは二度と嫌だという理屈抜きの思いがすごくありますね。
戦争は敵機が怖いとかそういう問題より前に隣組の相互監視とか、隣組の組長さんになったりすると物凄く威張る人がいて、なんであんな温厚な人がこんなに威張るようになっちゃうんだろうっていうふうな怖さ(2003)



稲田防衛相が、「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」
と発言。
歴史に向き合う姿勢が、到底あるとは思えない。祖父母の時代の教育や時代背景を聞いた時の怖さが呼び起こされた。
日本がもっと早くに敗戦を受け入れておれば、死なずに済んだ命も沢山あった。
戦争末期、祖母は、大阪の子が集団疎開するような田舎での女学校で、毎日竹槍で敵を突く練習をさせられていたのだった。
1945年 敗戦


新憲法について国民を啓発するため、占領軍の肝いりで、8枚の「憲法以前・以後」のポスターが制作された。それによると、戦後の新しい民主主義の核心は次のようなものであった。
(1945年のポスター/模写)
二つの憲法(戦前と戦後)

そもそも「教育勅語」は、戦前の大日本帝国の政府の教育方針。
“天皇が国民と同じ人ではなく、生き神様であり、皇室に国民は忠義を尽くし、いざとなれば無条件で命を捧げなさいよ” ということが、「教育勅語」の本質にはあります。
この、「天皇に仕える臣民」(天皇の家来ですよ)ということが「教育勅語」の柱であり、そこから「親孝行が大切」とか「家族仲良く」などの道徳の枝葉が出ているのです。
この枝葉の部分だけを賞賛して、子どもに教育勅語を教えるということは、歴史をふき飛ばす行為です。
当時の軍国主義と結びつき、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下、敗戦に至るまで、国内外にどれほど犠牲が出たかを、受け止めて、それを乗り越えていくことが、本来の教育のはずです。
「大日本帝国憲法」の、“憲法”とは、歴史を振り返ってみると、名ばかりで、実際には絶対天皇君主制でありました。
個人の信条でさえ、全部天皇がつくった法律の範囲内で、という制限がついていました。
当時の日本人は「憲法」とは言いながら、権力者にチェックができない、ましてや批判すらできない、そんな悲しい時代を生きていたのです。
「教育勅語の核を取り戻す」であったり、それを、何も知らない園児に暗唱させることを良しとする教育は、1945年敗戦以前の、天皇を頂点としたピラミッド型の価値観(上図)を肯定するものであり、国民主権、基本的人権、戦後の天皇の考え方を否定するものです。
現在の民主主義と相容れないので、既に昭和23年に教育勅語失効の決議は国会で通りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/教育ニ関スル勅語
《現在の日本国憲法ができる前、政府は、国民の天皇を慕う気持ちを利用して、政治と宗教とを混合させ、数えきれない若者を戦地へ送った。そして、広いアジアの国の人々に、この考え方を強要した。(下図)》

(1945年の新憲法ポスター模写)
当時、「神の国だから勝つ」ということが、学校でも子どもに教え込むことが日常であり、「戦争に負けるかもしれない」という言葉は、家族にさえも言えなかった。言論の自由など何一つなかった。
山田太一
(戦争は)あんなことは二度と嫌だという理屈抜きの思いがすごくありますね。
戦争は敵機が怖いとかそういう問題より前に隣組の相互監視とか、隣組の組長さんになったりすると物凄く威張る人がいて、なんであんな温厚な人がこんなに威張るようになっちゃうんだろうっていうふうな怖さ(2003)



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