8月15日 終戦記念日


ひまわり01
ひまわり02






地図 
The history of war in Japan


敗戦まで



一九二〇年から一九三〇年代、世界が恐慌と動揺の時代へと突入すると、日本の指導者たちは、アジアの市場と資源を支配するため、ますます熱狂的な努力を傾け、世界の混乱に対処しようとして、かえってみずから世界の混乱を助長していった。「大日本帝国」はまるで怪獣の姿をした染みのように拡大していった。
(日本で使われた地図では、日本帝国は赤く色づけされるのが常であった)。
一九三一年、日本は満州を奪取し、一九三七年には中国への全面侵略にのりだし、一九四一年には、真珠湾を攻撃した。これはアジアと太平洋の南方へと支配権を広げる戦略の一環であった。
一九四二年頭、日本の拡大は頂点に達した。このとき日本は、太平洋の真中に足をふんばり、中国本土の奥深くにもう一方の足を突っ込んだ、アジアにまたがる巨人のようであった。
北はアリューシャン列島から、南は東南アジアの西洋列強の植民地までつかみとっていた。
日本の「大東亜共栄圏」は、おおまかにいえば、オランダ領東インド、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、マラヤ、香港、そしてアメリカ領フィリピンにまで及んでいた。
その後はさらに、インド、オーストラリア、ハワイにまで手を延ばすのではないかと言われたほどであった。
天皇の聖戦の栄光と、忠勇なる陸海軍兵の不敗をたたえるバンザイの叫びは、国の内外の無数の地で天を衝いた。


詩人が、僧侶が、そして宣伝屋たちが、こぞって「大和民族」の優秀さと、偉大なる皇軍を誉めたたえた。
大東亜共栄圏とは、一頭のキメラ(ギリシャ神話の怪物)にほかならなかった。
太平洋戦争がはじまってから半年の幸福感は、夢の中でみる夢にすぎず、まもなく日本人自身がこの熱狂を「勝ち病」とみなすようになり、しだいに夢から醒めていった。
日本人は乱暴の限りをつくしたが、中国人の抵抗力がいかに柔軟であるか、合衆国が長期の戦闘で発揮する精神的・物質的な底力がどんなものかについて、ひどい誤算をおかしていた。
同時に日本人は、自分たちが作り出した戦争のためのレトリック —これは聖戦だ、不名誉よりも死を、戦死者たちの血の犠牲に報いよ、天皇を中心とする国体は不滅だ「暴戻(ぼうれい)支那」をはねかえし、「鬼畜米英」を踏みとどませる決戦はちかいぞ—
こうした表現に酔い、みずからその虜になった。
ドイツナチズムのニュルンベルク法(血統優越思想)と同じく、指導者は国民を侵略戦争へ誘導する意図のもとに、神道の教理並に信仰を歪曲して、軍国主義・過激な国家主義的宣伝に利用した。そうした有害なイデオロギーの中には、天皇が「家系、血統或いは特殊な起源」のゆえに他国の指導者よりも優れており、日本国民もまた他国民よりも優れているとする信仰も含まれていた。
天皇は大元師であったにもかかわらず、軍閥者流の横行を制止できなかった。天皇は家長のように自分の臣民を「赤子(せきし)」と呼んでいたが、その彼らを統制を失っていることが明らかな陸海軍に従軍させて死にいたらしめた。
日本の敗戦が疑いないものになって以降も、天皇を含む日本の指導者たちは長い間、降伏を考える能力さえ失っていた。


中国との全面戦争がはじまって間もなく起こった南京大虐殺から、太平洋戦争の末期のマニラの蛮行にいたるまで、皇軍兵士たちは表現しがたいほどの残酷と略奪の跡を残した。のちに知られたことであるが、日本兵たちは同僚の肉を食べていた。日本兵は絶望的な自殺的突撃をおこなって戦死し、戦場で餓死し、傷ついた自軍の兵が敵の手におちるよりもむしろ殺害するほうを選び、サイパンや沖縄のような場所では、非戦闘員の同国人を殺した。日本人は、自分の街が焼夷弾で破壊されるのを、なすすべもなく見守った。また、大本営が戦況と、空襲の被害に対して偽りの報道を国民に流し続け、有効な疎開はついぞ行われなかった。その間指導者たちは「一億玉砕」がいかに必要かについて、あれこれ説きつづけた。
広島・長崎への原爆投下以降も、指導者たちは日本の降伏に否定的であった。非戦闘員も最後の最後まで戦い、「玉砕」して死ぬのだと教え込まれた。本土決戦大東亜共栄圏のもっとも明確な遺産は、死と破壊であった。中国だけでおそらく一五〇〇万人が死んだ。
約三〇〇万人の日本人が死んだ。
傷をうけたり重病になった者はさらに多く、国土は瓦礫となった。


一九四五年、日本が降伏した時点ですでに、日本人の過半数は栄養失調であった。
食料不足は真珠湾攻撃以前から顕著化し、一九四四年ころには田畑で収穫前の作物を盗むことが新種の犯罪として登場し、同年大阪府は管轄内で発生した経済犯罪の四六%が食料がらみであったと発表した。
東南アジアと太平洋の戦場では、餓死が兵士の死因の第一位であった。
日本本土じたい、基本的な食糧を、朝鮮、中国に依存していた。
真珠湾攻撃の前の時点で、日本人が消費する米の三一%、砂糖の九二%、大豆の五八%塩の四五%がこれらの地域からの輸入に頼っていた。日本の敗北によって、こうした食糧の供給は、突然、断たれることになった。
敗戦後、国内では一〇〇〇人以上が餓死したとされる。





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Date: 2017.08.15 Category: 立憲主義は政治的でせうか Comments (0) Trackbacks (0)

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