『立憲』は、国家権力を法の力で縛っておくという、近代国家の憲法基本原則です。

桃と葡萄 8/24





森友(国有地払い下げ問題)・加計問題を煙に巻くため、安倍はまたも憲法を無視して審議をせず、冒頭解散へ踏み切った。
選挙では約600億円もの税金が使われるというのだから、審議のない解散は、まず国民に対してフェアではない。
長谷部恭男・早稲田大教授によると、首相が自由に解散できるという主張が臆面なくなされる日本は、主要先進国の中で例外であるという。

安倍政権下では、とんでもないことばかりが続いてきたが、(武器輸出の解禁、電波停止発言、PKO日報隠し、憲法違反の安保法、教育勅語肯定、共謀罪、等々——ひとつもまともな説明がなされていないのが驚きである——)
これは度を超えているなと感じたことを二つだけ挙げておきたい。


今年八月、小野寺防衛大臣は、北朝鮮が米領グアム周辺に向けて弾道ミサイルを発射した場合、集団的自衛権を行使して迎撃することは、可能であるという見方を示した。

日本が攻撃を受ける、又は受けそうになっているときに攻撃できるのは、個別的自衛権で、これは現行憲法で認められている。
しかし、他国(アメリカ)の戦争に日本が参加する集団的自衛権は憲法に違反しており、強行採決した際も、自・公は新三要件で厳しく縛ってあると説明していたが、これも小野寺防衛大臣のグアム迎撃見解で、いくらでも拡大解釈が可能であることがわかってきた。
集団的自衛権の行使は、危機存立自体である、「国民の生命安全が根底から覆される明白な事態に限って」という約束のはずであったが、
グアム周辺がなぜこの「根底から覆される明白な事態」にあたるのか、国民に対する説明はなかった。

安倍は安保法のとき、「日本が戦争に巻き込まれるなんていうことは絶対にありません」「戦争法案というのはレッテル張り」とくり返していたが、これも嘘であることがわかった。

グアムに飛んできたものを日本が撃ち落とせば、それは日本から専守防衛に終止符を打ち、戦争参加をするということになる。
当然、相手国からすれば、日本本土へ撃ってもよいとする口実ができる。
他国(アメリカ)の武力行使と一体化する恐れが極めて強い。
他衛の武力行使の自・公の云う「限定」などは、最初からない。
こうした自ら参戦する憲法違反の法案を「平和アンゼン法制」という美名でいまだに包んでいるのである。



二つ目は、さかのぼること今年五月の、読売新聞の記者が書いた前川さんの記事である。
加計(かけ)学園の獣医学部新設を巡り、「総理のご意向」と記された文書があったと、勇気を持って証言した、前文部科学事務次官の前川さん。
TV会見で汗を流しながら、前をまっすぐに見て話す前川さんを覚えている。
この文書の存在が表面化したとき、読売新聞は前川さんが在任中に「出会い系バー」に出入りしていたと新聞で大きく報じた。文書があったのか、それを忖度したのかどうかの問題を、前川さんのスキャンダル問題にすり替え、個人攻撃したのである。
私は、このような個人に対する、権力側擁護、「内部告発者の吊るし上げ」とも取れる攻撃を、大手新聞がやってしまったことに戦慄をおぼえた。やってはいけない一線を超えたと思う。

わが国には現在、朝日、毎日、読売という三大紙がある。日経、産経を加えて五大紙と称することもあるらしい。
そこに東京新聞、北海道、京都、熊本、沖縄、などの全国地方紙が加わる。

国家権力が1+1=2であると主張した場合、これをそのまま1+1=2であると報道するのが、ジャーナリズムの仕事なのではない。事実は伝えなければならない。しかし、伝え方にも無限の方法があり、いい日本語、読んで啓発される文章、おもしろい文章、国家権力が私利私欲ではなく、国民のために働いているのかどうかのチェック機能、国民の素顔の声を拾った文章、——そういうもので書かれているかどうかが新聞の生命を決定すると私は考える。

TVに出ているひとの顔、メディアの取り上げ方、全体的に萎縮しすぎである。
海外で日本の報道がどうなっているか、日本の皆さんはご存知か。
安倍は歴史改ざん主義・対米従属として有名になりつつある。
(安保法を日本の国会に出す前に、アメリカ議会で約束してきた、日本国民を後回しにした恥ずべき瞬間。それを海外の新聞は一面トップで報じていました)


日本は過去に国会が機能しなくなり、大手新聞社がこぞって勇ましいスローガン一本槍に国民を戦争へ導いた苦い歴史がある。

言葉と憲法の軽視。それがどこに返ってくるか。
わたしたちに返ってくるのだ。






追記 なぜいま『立憲』か






 

なぜいま『立憲』か



枝野幸男氏が、新しい受け皿として『立憲民主党』を作った。

「立憲」とは、一般的に、普段遣わない言葉であるが、決して特別な、そして新しい概念ではない。「立憲」が注目を集め始めたのは、皮肉にも自民党が作った「自民党憲法草案」の頃からであると思う。ここ数年のことだ。

憲法とは、国家権力を国民の側から縛っておくこころみである。
99条憲法尊重擁護義務に、国会議員、裁判官、天皇、その他公務員はこの憲法を守るべしということが書かれている。
押さえておきたい大切なことは、ここに「国民」は入っていないということである。
憲法は私たちが守る、刑法・民法とはちがい、公権力の行使を制限するために、主権者(国民の側)が定める根本規範である、
というのが近代立憲主義における憲法の『定義』です。
日本だけでなく、主要先進国の中(中国、北朝鮮をのぞく)では立憲主義に基づいた憲法になっている。

「憲法は国民と共にある」これが枝野さんの十年前からの変わらぬ主張です。
政治的な主張、というよりは、憲法の土台を理解して、そこから議論に移ろうという、憲法とは、決して時の権力の思い描く道徳や、特定の価値観を書込む場所ではない、そんな当たり前の前提を示しているにすぎない。
立憲主義は、学校の教科書にも書かれており、法学科の大学出身の方に尋ねると、大学の授業でも教わるという。

立憲主義は、リベラルとか保守の党派の問題ではない。
法の支配か、アメリカ追従独裁政治のどちらを選ぶかという問題です。

改憲か護憲かという議論になりがちですが、
この立憲という定義が共通認識としてあってはじめて、憲法議論に入れるのです。

自民党では、この定義から覆す草案(2012年版)が作られました。
国民の自由を制限して社会秩序を維持する刑法や民法のような一般の法律と、憲法を同格にしてしまう、国民を縛るものに変えてしまう草案です。
草案を作ったひとが、憲法に対する知識があまりにお粗末であったため、その頃から全国の憲法学者たちが「憲法入門」などの本を多数出版、時に街頭に立って、時には集会やホームページを開いて、憲法の定義から国民に説明をする活動を行ってきました。

同時に安倍政権は、改憲案を全面に出さず、それならば96条のハードルを下げる改憲を「おためし改憲」などと呼び、
それも批判を浴びるとすぐ引っ込め、9条改正を正面から国民に問わず、内閣法制局の長官を、自らの考え方に近い人物にすげ替えて、違憲の集団的自衛権を強行採決させました。
そして今度は選挙で勝てば安保法案を現状追認する形で改憲するという、これまでの流れを見ると
「何でもよいから自分が改憲して歴史に名を残したい」そう思われて仕方ない、国民の議論抜きの手法を進めている。
安倍首相の歴史認識と改憲への執念に、国民が振り回されている格好です。


我々は、普通どこかへ移動する場合、必ず「行き先」を確認してからバスや電車に乗る。
ときの雰囲気や、いわゆる「勝ち馬に乗る」式の多数派に流され、改憲した結果、「立憲」まで無くした憲法空洞化の国にならないよう、憲法の役割について、知っておきたい。
そして、歴史を知る側にいる者として、憲法擁護義務に当たる人が守らない場合、その政党・人を支持しているかしていないかとは関わり無く、国民はおかしいと声をあげねばならない。これが民主主義のベースです。











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Date: 2017.10.03 Category: 立憲主義は政治的でせうか Comments (0) Trackbacks (0)

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