FC2ブログ

祖父の軍隊手帳


軍隊手帳




引き出しを開けると、軍隊手帳。








軍隊手帳2




私の母方の祖父は、旧満州(中国東北部)で仕事をし、敗戦前にかろうじて帰国して生きながらえた人です。
途中に多くの帰国船が撃墜され、又この時、多くの残留孤児がうまれました。
父方の祖父は、山の田舎の学校の校長をしていて、出兵から免れましたが、その兄弟、同級生は、ほぼ皆戦死です。
だから、この軍隊手帳には血もついていないし、全ページきれいに読むことができます。

軍国主義の当時は、国民ではなく、我々「臣民」です。「天皇に仕えている家来」ということです。日本軍ではなく、天皇統帥(天皇を頂点として率いられる)「皇軍」。「大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る」「國體」に、「謹んで服従致すべし」。

昭和天皇(神様)を絶対頂点とする杭が、上は軍部から下は家庭の子供の中まで一人漏らさずピラミッド型に一直に突き刺さっていた時代。
「天皇」といえば、ウンもスンも言えない、北朝鮮体制のような時代でありました。






地図 





日本が、アメリカ・イギリス・中国などの連合軍との間で戦火を交えた太平洋戦争。
地図の点線内が日本の最大進出領域です。

陸軍は、軍人に必要な生活物資、特に食料を、後方から補給せずに、「現地微発」せよと命令します。
「微発」といっても対価を払わないことが多い。実際には、各地の民衆からの略奪によって行軍を続け、略奪しながら驚くほどの広範囲にまで進出しました。
一九四四年の、大陸打通作戦に参加した江頭義信は、中国湖南省の長沙に向かう行軍を次の様に書いています。




この街道は六月に三個師団が通過しており、今また師団が通過したばかりなので、沿線の部落は荒らされ食い尽くされて、食料がなかった。(中略)来る日も来る日もわずかばかりの食べ物を漁り歩く姿は、落ちぶれた野盗か喪家の犬と変わりがない。
(『日本一歩いた「冬」兵団』)





圧倒的に物資が有利なアメリカに対して、皇軍は最初から不利であり、その不利な部分は各々の「精神」で補えというのが、当時の軍事思想でした。





日本軍時代の比島を見ると、「大東亜共栄圏の為」「東洋人は東洋人で」「八紘一宇」等という、すばらしいスローガンを挙げていたが、人の国へ土足のまま威張りくさって入り込み、自動車、畑、食料、家、家畜等まで、どんどん徴発していき、土民は兵隊に会えばお辞儀をすることを強要され、難しい日本語を無理に、おしつけてきた。
(『虜人日記』 比人が日本軍を嫌うわけ )






その結果、補給、衛生、海上護衛などは軽視され、ずさんな計画の元で次々に日本軍兵士は飢えて戦病死していきます。
餓死者は類を見ない異常な高確率で、戦没者(日本のみ)二三〇万人のうち、一四〇万人(全体の61%)にのぼります。
(個人の限界を超えて無理だとわかっていることを、精神戦でどうにかしろ、というのは、今日にも過労死などの問題として続いており、いかに日本人が限界を語るのを嫌がる民族性をもっているかということを、考えざるをえません。)

めちゃくちゃな作戦として名高い、インパール作戦に従軍した中野信夫は、退却の日本軍について次の様に書いています。
食料だけでなく、戦況悪化に伴い、靴や服まで持ち物も奪い合いになりました。




この地獄の靖国街道に鬼が出没するという話が伝わってきた。(中略)日本の将校が日本の将校から食料を強奪するという話である。

(『靖国街道』)





飢餓がさらに深刻になると、食料のための殺害、人肉食のための殺人まで横行するようになります。
家の近所に旦那さんが南方の激戦地から復員したという方が94歳でおられます。
お話によると、そうした人肉食は、実際身の回りであったそうで、そうしたことを「良いとか悪いとか考えられない」状況にあったのだそう。
『虜人日記』にはカエルや川のカニを捕まえる絵日記が載っていますし、マムシを捉えたり、土を掘った便所にわく蛆虫を大量に集めて、(虫=タンパク質ととらえて)戦車の部品で濾して、天ぷら油を作ったなどという話の詳細は、伊丹十三の対話本の中にあります。上官による陰湿ないじめなど(精神棒で殴る、行軍の際に重い荷物を持たせる等)も横行し、ピストルや手榴弾での自殺者が日常化するようになります。

軍部で横行した捕虜や部下への虐待・残虐行為は、個人として独立した、強い自我意識に支えられたものではなく、国家権威との合一化に基づくものであったと丸山眞男は分析します。現人神に立場が近くほど、何をやっても無責任に許され、その抑圧は下の者になればなるほど強まるという、ピラミッド型の精神体系でした。



敗戦が必至となった後にも、大元帥である昭和天皇は戦争終結がなかなか決断できません。


天皇裕仁は軍部の横で座視していたのか。
ミッドウェー島の攻略を命じた大海令第一八号、ここで攻略を命令しているのは裕仁自身で「奉勅」という記録が残っています。
『日本軍兵士』(無残な死。その歴史的背景 P 159)吉田裕著


海軍が発案した特攻も、天皇裕仁は許可を出している。
兵士とはいえ、一人の人間を連れて来て、腕に軍医が注射器でヒロポンを打って、実は戦法として効果も薄い体当たりの、生還の見込みなしの特攻をやらせる。
こうしたことは自由な思想の中で自然に起こったことではなく、発案者がいて、当時の「皇軍に退却無し」という軍国教育を背景として行われたことです。
日本人には「誠」を大切にする文化がある。「誠心誠意頑張ります−」など、結果がどうあれ誠実にやったかどうかということにも重きをおく。特攻も、そうした調子で美化される面がありますが、降伏して命助かるという選択枠を臣民に一切与えず、又こうした犬死を「万歳、万歳」で迎える、(生き延びて帰ることは恥だという)皇道教育が行われたこと自体が異様で、私は美化して語られることについてはいつも疑問を感じています。




負け戦は負け戦として発表出来る国柄でありたかった。調子の良い事ばかり宣伝しておいて国民の緊張が足らんなどとよくいえたものだ。(中略)外国をだますつもりの宣伝が自国民を欺き、自ら破滅の淵に落ちたというものだ。

(『虜人日記』 「転進」という言葉 )





天皇裕仁の関わりについては吉田裕氏が先日、朝日新聞に書いていました。故・井上ひさしも、当時の記録を詳しくまとめています。
読むと、天皇の戦争終結の決断がいかに遅すぎたかということがわかります。
もっと早くに終結のチャンスは何度かあった。しかし「もうひと旗上げてから終われば、アメリカとの交渉が有利になる」と結果的にズルズル先伸ばしにします。軍部と天皇と日本政府が先延ばしにしている間におびただしい人が戦場で、また戦況に絶望して餓死や自殺で死んでゆく。もし、戦況を見極める目があり、負け戦を「転進」と宣伝せずに正しく国民に伝えておけば、敗戦受け入れへの国民合意形成はできたわけで、そうすれば沖縄戦も、原爆投下もなかった。
全戦没者の中で、一九四四年以降の戦没者が実に91%に達します。



〜敗戦〜

原爆投下後も狂った軍部はまだ本土決戦に備えて(本土には女性、子供、年寄りが多数で、その多くは非戦闘民でした。陸軍の決めた正式な武器が竹槍でした。)、その間に天皇を中国に残っている日本軍の元に逃す計画を立てていました。
敗戦と同時に、日本政府は戦没者の年代ごとの統計さえ録っていないというずさんな管理体制が明らかになります。
実際、天皇による八月十五日の重大放送の直後、政府組織のレベルで起こったことはきわめて自己保身をねらった実際的なものでした。全国の軍将校や文民官僚たちは書類を焼き捨てたり、軍の貯蔵物資を売却する仕事に没頭します。
前線では「一億玉砕」を説いて、部下たちに威張っていた将校らが、突然、自らは玉砕しない言い訳に走り、胸の勲章を剥いで捨てるという行為が多く目撃されています。





〜大元師のラジオ放送〜


敗戦の八年前、日本は天皇の名において中国との全面戦争を開始します。それ以降、天皇裕仁が人前に出る時はいつも軍服に勲章をつけた最高司令官の姿でした。一九四一年十二月、天皇は合衆国と欧米諸国に対する戦闘を開始する旨の詔書(しょうしょ)を発し、その三年八ヶ月後に、単に敗戦の終止符を打つだけでなく、日本の侵略行為を否定し、この長年にわたる侵略について、彼個人は何ら責任を問われないようなやり方で終わらせるように原稿を書きます。

電波を使って臣民に直接話しかけるという方法を考えたのは、裕仁自身でした。
天皇の超越的な道徳性はそのままに、アジアの安定を確保するために戦争を開始したのだと言いました。
広島と長崎に原爆が投下されたことに触れ、敗戦の決断は、凶暴な敵の行為による滅亡から人類そのものを救う、度量の大きい行為にほかならないとさえ述べます。
裕仁は、古典的な言い回しで、臣民の犠牲は自分自身の苦しみであるといい、みずからを国家苦難の体現者であり、究極の犠牲者であるとします。
一九四五年八月十五日の降伏を告げたラジオ放送の内容です。







〜天皇裕仁の責任回避とマッカーサーの思惑〜

軍隊手帳、「戦陣訓」は「夫(そ)れ戦陣は、大命に基づき、皇軍の真髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布しー」と続きます。
政府イデオローグの執筆した『臣民の道』では、
天皇は天照大神の直系の子孫であり、日本は神の国の統合したまう国であることを強調していました。
アジアの人々に(インドネシア人を死ぬまで酷使する等々)強制労働などの非道な振る舞いができた背景には、こうした「神の国の臣民は特別なのだ」、という当時の絶対的価値観が影響していたと考えられています。
『臣民の道』は、天皇の率いる戦争は聖戦であり、忠が最高の美徳で、こうした美徳を損なう「個人主義、自由主義、功利主義、唯物主義」は排除しようと苦心した、宗教の教典でした。
後に明らかになるように、裕仁はしたたかで、マッカーサーの助けにより生き残り、一方で裕仁を取り巻いていた忠良な部下たちは、皆責任を問われ、戦争犯罪で追訴され、戦犯として処刑された者もいます。(東京裁判)

なぜ天皇が処刑されなかったのか。当時、戦勝者の連合国では、裕仁を戦争犯罪人として起訴せよという声が執拗に続いていました。国内では「だまされていた」と覚醒した多くの者が天皇を公然とあざけり、元駐日大使ジョセフ・グルーのような天皇制擁護者でさえも、「天皇裕仁が真珠湾攻撃の宣戦布告の詔書に署名した責任だけは避けられないであろう」と考えていました。

結局処刑されませんでしたが、マッカーサーが裕二を擁護するであろうことは、降伏以前に方向としてすでに確立していました。

合衆国の行った戦争犯罪の一つ、東京大空襲。非戦闘員に莫大な損害を与えた無差別殺戮です。
(ちなみにご存知のように、世界で初めての非戦民に対して行われた無差別爆撃が、日本が行った中国の重慶爆撃です。)
こうした空襲の最中でも、皇居には爆撃が控えられ、戦中は戦法として裕仁への中傷宣伝も禁じられていました。
マッカーサー司令部の宣伝担当官たちと連合国は、天皇をいたずらに徴発するのは避けようという戦争方針でした。
敗戦以前の、一九三四年からアメリカは『日本兵の心理』という研究を始めています。天皇は宗教的畏敬の対象になっているので、彼を攻撃すると日本人はいっそう命がけで抗戦してくるだろう、アリのよう全員が死ぬまで戦うだろう。そうすると面倒である、天皇が日本を降伏させること、更に戦後の変革にも鍵を握っている(利用価値がある)と考えていました。

目前の計画としては、前線の日本軍の降伏を、なるべく抵抗の少ない形でうながし、日本国内の戦意を低下させるため。
もう一つは、狂信的な軍国主義に染められた敵国の焼け跡に、少ない抵抗で民主化をスムーズに取り入れさせるには、天皇を処刑せずに生かした形で、天皇から和平を裁可すれば、全員が納得するであろう、そうすれば、日本を完全な廃墟にする前に、対日戦争は終結する可能性があるかもしれないし、連合国の不必要な損害もこれ以上避けられる、と考えられました。

結果、マッカーサーが戦後混乱鎮圧のために裕仁を擁護して見せる(臣民に対して)。その見返りに占領政策に協力する、という大元師からの約束をとりつけます。
この計画は国内では成功し、天皇の終戦の詔書は、国民を喜びで満たします。
アメリカでは戦争責任者である裕仁を起訴せよというのが、当時の七割以上の国民の声でした。




この後にアメリカから与えられたのが戦後民主主義であり、国民は自ら今の自由を勝ち取ったわけではありません。
又、国民自らでこの戦争を裁いたということもないままに、戦後74年を迎えようとしています。
























本







戦中の本を読むと、戦後に生まれてよかった、と思います。
日本軍がもし仮に勝っていたら、今も軍隊手帳の中の思想のままに、北朝鮮のような独裁体制になっていたと思います。女性の政治参加ももっと遅れたはずです。
一応民主主義だけれども、今の政治は、大丈夫なのだろうか。
テレビで既に「反日」という言葉が使われている。そうしたナショナリズムにわっと靡く土壌ができていないだろうか。
憲法尊重擁護義務のある政治家が、「日本人の心を踏みにじる」などと言って、展示が中止になっている。







哲学者の鶴見俊輔は、戦争をアメリカと日本で体験し、敗戦後、当時の政治家たちがこぞって使った言葉を研究しました。
「日本的」「皇道」「國體」。自分の立場を守るために、権力者によって正しいと認められた言葉を使うことを「お守り言葉」と表現。



《文学や思想が国家主義一辺倒だった時代をくり返したくない、借り物でない自分たちのための民主主義を日本に根付かせたい》
そうした想いから丸山眞男らと共に創刊した『思想』の中で、「言葉のお守り的使用法について」と題してこんな記述があります。





政治家が意見を徹底的に具体化して説明することなく、お守り言葉を程よく散りばめた美辞美文を以って人心を得ようとし、民衆が内容を冷静に検討することなくこのお守り言葉の使いぶりのみを見て賛否を決定するーーーこの慣習が続く限り、何年かの後に高度のうやむや政治の復活する可能性が残っている


(雑誌『思想』より)


鶴見俊輔は、言葉が紋切り型となって空回りする日本の精神風土の危うさを、予見していました。



















関連記事
Date: 2019.08.11 Category: 立憲主義は政治的でせうか Comments (0) Trackbacks (0)

この記事へのコメント:


管理人のみ通知 :

トラックバック:


カテゴリ
Watercolor 3 (410)

Watercolor  5(89)

デッサン 2(64)

水彩画 2 (103)

水彩画 (507)

デッサン(252)

水彩 4(104)

スケッチ 2 (141)

Sketch 3(113)

Sketch 4(33)

スケッチ  1(258)

素描 Drawing(19)

立体造形(15)

漫画,イラスト An illustration(21)

創作絵本(12)

わたしの部屋 (165)

わたしの部屋 Ⅱ  (103)

俺の万年床(14)

卓上から (101)

旅行の風景/Taiwan 、Thailand(34)

旅行/京都 、 奈良、広島、大分(59)

神戸するめクラブ(9)

模写(11)

日本画(7)

Baliのいろいろ(30)

Bali 田んぼを走るAda・インダスの渓谷(0)

Lombok 島 イグアナはモーと鳴かない(1)

庭(133)

立憲主義は政治的でせうか(62)

Laos の火鉢(84)

Laos かたちあるもの かたちないもの(61)

タイ 2(21)

Thai The Sundaysの音楽(0)

沖縄(50)

沖縄 石垣島 2(26)

フラフラ Hong Kong Night(40)

Malaysia ランカウイ島 12匹の猫と長毛種(1)

Taiwan3  タイチュン 茶の山 (48)

Sidemen(後編) テヨンさんとアグン山(2)

シドメン 再びのTeo、牛飼いのマナとサヤ(19)

Taipei 4   “小人退散 貴人来”(30)

金沢 井上有一の筆(0)

台湾 高雄 STAR HAUS HOTEL の7月・9月・3月 (13)

福岡 (0)

VIETNAM 飛ばない気分 (0)

Taiwan 秋のクリスマス(0)

木星の端に座って Diary   (61)

役に立たない日々(24)

SICILY  ORTIGIA マルコと唄う「Darling」(54)

寒さ厳しい Amsterdam(3)

カウンター
プロフィール

TOMOKONOMORI

Author:TOMOKONOMORI
森島朋子 

Tomoko Morishima
【Shiga, Japan】













無断転載は禁止します。

カレンダー
<
>
- - - - - - -
- 1 2 3 4 56
7 8 9 10 11 1213
14 15 16 17 18 1920
21 22 23 24 25 2627
28 29 30 31 - - -

全記事

Designed by 石津 花

月別アーカイブ
最新記事
ブログ翻訳
英語English
韓国語 한국어
中国語 中文
フランス語 Franc,ais
ドイツ語 Deutsch
イタリア語L'italiano
スペイン語 Espan~ol
ポルトガル語 Portugue^s
Present's by サンエタ
最新コメント
QRコード
QR